「心や感情、意識は何故あるのか?」

という問いには大きく分けて二つの意図が存在するでしょう。

ひとつめは
「どういう仕組みで心や意識は生じているのか」
という意図。

ふたつめは
「いったい何のために心や意識はあるのか、何の役に立っているのか」
という意図。

まず
「どういう仕組みで意識(自我、心)が発生するのか」
というメカニズムはまだ解明されていません。

幾ら脳が複雑な仕組みをくみ上げたとしても、
そこに心や意識、自我と呼ばれるものが何故生じるのかは分からないままなのです。

仮に魂や神様という、オカルト的な考え方を肯定するとしても、
「では何故、魂が存在するのか」
「神様が人間を作ったとして、その神様は誰が作ったのか」
という疑問が残ってしまいます。

次に

「何のために心や意識はあるのか?」

です。
これも正直結論が出ていない問題で、
宗教的、オカルト的なものまだ含めるとさまざまな説があると思います。

今回は「輪廻転生して徳を高めるため」とか「神が自分を模して創ったから」とか系統の話は抜きにして、
「人間という生物として見たときに、何のメリットがあるか」という観点で考えていきましょう。

さまざまなの説があるなかで、私がなるほどと思ったもの。

それは、
「さまざまな情報を統合し判断するのに便利だから、という理由で生み出されたプログラムが”私”という意識」という考え方です。

世の中にはさまざまな情報が溢れています。
それらの情報を集め、処理した結果に対して、何らかの判断を下す。
確かにそういう存在は必要でしょう。

では何故、その存在が”心”や”自我”を持つようになったのか。
もっと機械的なプログラムではいけなかったのか。

これについて、
私は「個体差を持たせ、また更なる個体差を自動的に生み出すのに、効率的だから」ではないかと考えています。

また
「心や感情があるからこそ、さまざまな個体差が生まれる。
個体差と感情があるからこそ、苦しみや争いも生まれるが、そこから発展や新しい文化も生まれる」
とも思っています。

「理屈ではこちらの選択肢が良いと思う。
でも感情的には、どうしても別の選択肢を取りたい。」

こういう思いに覚えがある人は多いはずです。

その結果、理屈のみの選択肢ではなくて、
感情に従った選択や、間をとったような選択をしたことがある人も…。

きっとそれは単純にランダムに振り分けることだけで生じた、多様な結果とはまた価値が違うはずです。
(考えたり悩んだりしたうえでの結果が蓄積し、次の判断に影響を及ぼすので)

場合によっては、今までにない新しい選択肢を発見するかも知れません。

感情や心があるからこそ、選択に幅が生まれ、
意識があるからこそ、蓄積していく。
個があるからこそ、それが共有されたりされなかったりして、
その結果、その後の選択がまた多様化し、さまざまな可能性を生み出す。

あくまでも”現時点での”個人的な考えですが、
私はそのように考えています。